驢馬

会話の中で、人の話を自分の話に持っていく人がめんどくさい。まだまだ掘り下げれば色んなエピソードが出てきそうにもかかわらず、それを断ち切って自分の話に持っていく。常に自分自分、自分が主人公。自分はすごいやつ、だからもっと注目されるべき、もっと自分のことを見て自分のことを引き出せ。

あーめんどくさい。

薄っぺらい人だなと思う。だからこういう場所にいるんだろうと思う。やっぱり場所が場所なだけに、ここにいる私のような年齢の人間はどこかおかしな性格である。もちろん私も例外ではない。多分、足して二で割るくらいでちょうど良いのだろう。

それに気付くことが出来ない人は、どことなく裸の王様のようで、滑稽でもあり、かわいそうでもある。私にできる事はそうならないようにいること。それだけである。

車時

朝、車で右折しなければいけないところを、そのまま直進してしまった。ちょっと別のことを考えていたという理由もある。しかしこういう間違いはしない人間であるため、自らの加齢に頭を抱えてしまった。

時の流れに反することなんて出来ないので、それを柔らかく受け入れることしか出来ないのだが、やはり過信してまだそれを認めたくない己がいることも確かだ。

先日、とある問題を指摘され、ついつい感情的になってしまって、私はそんなことはしていない、とやや強く言ってしまい、その圧に押されたのか相手も、それは済まなかったと謝ってもらう結果になってしまった。その時はそれが私の正義だった。私が規則を破ることなんてあるはずがないと、まさしく過信していたのだ。ついうっかり、という、この可能性から完全に目をそらしていた。

冷静に考えてみると、そのついうっかりという可能性が50パーセントほどあるように思える。今となってはどちらが正しいのかわからない状態だ。

自分を信じることは確かに大切なことだ。しかし、それと同時に謙虚さも大切だ。

あの場で否定したことは問題ない。問題なのはその言い方だ。自尊心を守りつつ謙虚さも持ちながら相手に伝えなければならない。

謙虚さが欠けていた。反省。

罪悪

罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、頭ではわかっていてもこれがなかなか難しい。結局罪を犯したのはその人なのだから、その人の人間性により罪は引き起こされたのだから、その人自身を責めないことなんて、表面上は別として、心の底ではどうしても責めてしまうのだ。そしてその罪が引き金となり、その人との距離も段々と広がり、やがて疎遠になってしまうのだ。

これは仕方ないのかなと思っていた。

しかしごく最近、罪を憎んで人を憎まず、これが心の底から出来るようになった。もちろんケースバイケースで、その時だけかもしれないが、今回のこの一件で、言葉の本質を心から理解することが出来た。

私にとってはその罪は大きい。同じ人によって累積されてきた罪に対しての怒りは吹きこぼれそうになっていた。そして今日一言言わせてもらった。もちろん柔らかくだ。人に強く言える人間ではない。

ただ、私はその人に対しての怒りは不思議なことになかった。確かに罪を犯したのはその人で、性格的な問題だ。でもその人はその人で罪の実感は持っている。

だから、私がさらにその人を責めるのは違うような気がするのだ。これで、その人が罪の意識が無いというのであれば話は別だ。罪も人も責めなければならない。

自ら犯した罪は自らが一番よくわかっているはずだ。

罪の償い方もわかるはず。

一生背中に背負わなければならない罪を犯した者は自らで自分を苦しめることもあるだろう。

そういう人を憎むことは出来ない。

多分私も、底つきで大変な罪を犯したので、だからこそこの心境にたどり着いたのかもしれない。

罪を憎んで人を憎まず、だ。

禾坂①⑥

38人は多過ぎるなぁ。

単純に三等分するとして12,3人が乃木坂46に来るとして、総人数が50人超えるのはどうかな、と思う。

曲出すとすると選抜、アンダー共に20人超え。そうなると一人一人の比重が軽くなり、良い結果になるとは思えないのだがね。形態を変える可能性もあるのかな?

今現在くらいの人数がちょうど良いと思うのだけど。まだまだ今いるメンバーのポテンシャルも引き出してないし。

こうなってくると運営による商業的戦略が見えてきてちょっと興ざめしてしまう。確かにこれから先卒業するメンバーも出てくることだろう。そう考えるとある程度の数の補充も先行しておかなければいけないのかもしれない。私は納得するしかない。

ただここで一つ思ったのは、私は、斉藤優里が卒業するとこれまでと同じテンションで応援し続けられるのか?という問題である。他にも好きなメンバーは確かにいるけれど、多分今は斉藤優里がいるから乃木坂46を応援しているような気もする。斉藤優里がメインになる曲やMVなんてそうそうないけれど、乃木坂46の曲やMVを好きでいられるのは、彼女がそのグループに所属しているから、という理由が大きいと思う。

合同オーディションのおかげでそれに気付くことが出来た。多分だけど、彼女が卒業したら、CDを全タイプ買うなんてことはしないと思う。よほどのメンバーが現れたら話は別だが、今の乃木坂46メンバーの中には斉藤優里を超えるだけの人はいないように思う。

私はここ最近、自分は箱推しなのではないかと思っていたが、そうではない。やはり私は唯一無二の斉藤優里推しなのだ。

三角②

まだ覚えていない乃木坂46のメンバーの名前と顔を一致させる努力をしようと思いたち、それならば、ということで、「三角の空き地」のMVを繰り返して見ることにした。アンダーのメンバーの顔がアップになるシーンがあり、結構それぞれが映るからだ。

まずその前に、先日表記したメンバーの中で山崎怜奈はすでに覚えている。ショートの子で頭もよく、クイズ番組にも単独で出演している。

見始めて目に付いたのがすごくキレイな子。眼力のある子。誰かなと調べると吉田綾乃クリスティー。あの斜めから刺すような視線はドキリとさせられる。

次に目に付いたのが目の大きな面長の子。誰かなと調べると阪口珠美。この子は特徴ある顔なので覚えやすい。

次に目に付いたのが前髪をアップにした幼い子。誰かなと調べると向井葉月

そして顔アップのとこで何かノッペリした顔の子。誰かなと調べると渡辺みり愛。何か普段の顔と違う。メイクが似合ってないのかな。

そうだ、大事なことを忘れていた。久保史緒里は休業中だから省く。

あと二人。伊藤理々杏と中村麗乃。切れ長の目が伊藤理々杏。何とも特徴を言えないが中村麗乃も覚えた。

これで乃木坂46メンバー、久保を除いた39人クリアである。

そして覚えたおかげで三角のMVも好きになってしまった。センター中田も良い味出してるし、北野、佐々木、佐藤、吉田のようなキレイどころも揃っているし、アンダーながらもさすが乃木坂46といったところである。フワフワスカートで踊る姿もキレイでストーリーも良い。

ここで数週間前をさかのぼると、今回のアンダーには推しがいないのでタイプAは最後まで敬遠している自分がいた。仕方ないとはいえ、こういう姿勢はあまり良くない。消去法で今回のアンダー曲を真っ先に除外した私の姿勢は責められても文句は言えない。

しかしながら結果こうしてメンバーの名前を全て覚え、またしても好きなMVが見つかるという嬉しい悲鳴。好きな曲、好きなMV、好きなメンバー、日に日に増える事態に私はどうしたら良いというのか。

 

咄嗟

「三角の空き地」はスルメ曲だと先日言わせていただいたが、個人的にこの手の切ない系、別れ系の歌は好きなのである。

私が乃木坂46の曲の中で一番好きと言っても良いのが、「あの日 僕は咄嗟に嘘をついた」

MVもメロディも好きなのだが何より歌詞が好きで、中でも「君と僕は違う空を見ている」というこういう表現が大好物なのである。

乃木坂46とは少し離れるが、GARNET CROWの「千以上の言葉を並べても」は私の最も好きな曲の一つだ。

これもすごく切ない。そして歌詞の中に「同じ土の上では生きていけない二つの種の想い」という詩がある。なんとなく前述の表現と同じような意味であるかのように思える。

近くにいるようで二人がいる場所、見ている景色は違う、こういうこれまでの歩みを振り返りつつの愛の終焉の表現方法。秋元康にしてもAZUKI七にしても作詞の力が素晴らしいんだな。

言葉というのは結局はあいうえおの繋がりでしかないのだけど、その組み合わせで人を喜ばせたり、怒らせたり、悲しませたり、楽しませたりすることが出来る。人に影響を与えられるような言葉の魔術師、そういう人に私はなりたい。

 

さて、「咄嗟」である。

単に別れの曲というわけではない。これは僕の再生の物語でもある。決してそういう姿が描かれているわけではない。ただ、詩の行間を読むとそう感じ取れるのだ。そう、「咄嗟」は文学なのである。「千以上」も然り。

最小限の文章で奥行きのある物語を作る。

これも私にとっては課題の一つだ。

信仰

無宗教な人間で、困った時は神だろうが仏だろうが何にでも頼る私だけれど、お坊さんとか神父さんとかその道を歩む人の話を聞くのは大好きで、なるほどと感心するのである。

半年ほど前になるかな、とある教会の神父さんの話を聞く機会があり、私は耳を傾けた。

神父さんは、ご先祖を大切にしなさい、と私たちに説いた。ご先祖さまを敬い、手を合わせることで自分の心も豊かになる、と。その時は、なるほど、そのへんのなんの縁もない神社に行って手を合わせるよりも、自分の先祖のお墓を参ることの方が大切なのかもしれないな、と素直にそう思った。

お盆である。お墓参りといえば一年に一回この時期にしか行かない。昨日私は祖父母が眠るお墓に参ってきた。手を合わせ、決意表明というのは大げさだけど、こういう感じで生きていきたいと報告した。素直な気持ちだ。

そして今日、少し良いことがあった。別にこれがお墓参りの効果だとは思わない。そう思うことは祖父母に失礼だ。

ただこういう目に見えない力は自分が正しいことをしたときに働くとそう信じている。今日だって、当初予定していた行動とは違う。直前になって別の道を選択した結果だ。なぜそこでそういう行動をとったかはわからない。しかし結果的には私を成功へ導いてくれた。これを不思議な力と言わずして何と言おう。

この不思議な力の働きを受け取れるよう、日々行動していかなければならないなと思った今日一日である。