強請

乃木坂46の元メンバー橋本奈々未のソロ曲『ないものねだり』を聴き、柴田淳の歌声にも似た心地良さを抱きながら、その早過ぎる引退に寂しさを感じる。

 

卒業したことに関しては致し方ないにせよ、引退するには惜しいなと、自分勝手に思いながらも、こうして残してくれた歌声に深く感謝する。

 

思えば人はいつか死ぬ。

生きているときに何を残すかが生きてきた証である。

こうして音楽を残したり、または書籍を残したり、映像、建築物、彫刻などの芸術であったり、偉大なる発明であったり、スポーツで言えば記録であったり、もっと言えば、自らの血、すなわち子供であったり、未来に何かを残すことが生きてきた証なのだ。

 

ここで見つめ直すのは私自身。

今挙げてきたものを一つでも残しているか?

答えは否だ。

 

私は未来に何も残せないまま、現在の誰にも影響を与えぬまま、死んでいくかと思うとそれは大変寂しいことである。

 

唯一の救いは、私は今生きているという現実である。

死に直面していないという現実である。

今残すものは何も無い。

しかし、残すものを持っている人を指をくわえて見ていても何も得られないし何も始まらないのだ。

 

「私 ないものねだりしたくない」

だったら?

ねだるな勝ち取れ!である。

エウレカセブンである。